文化・芸術

2013年3月 9日 (土)

口パク歌番組でもよいが、それを正しく表示せよ

音楽番組プロデューサーとして評価の高い、フジテレビのきくち伸プロデューサーが、自らのブログ「きくちPの音組収録日記」で3/5、自らが担当する『MUSIC FAIR』では、『僕らの音楽』『堂本兄弟』と同じく「口パク」を行わないと宣言した。

http://otogumi.fujitv.co.jp/lovekp/D20130305.html

『MUSIC FAIR』の2/6の制作会議で、全会一致で「口パク」を排除することに決めました、と公表している。「歌手であるからには、フツーに歌えることが絶対条件だと思う」とも書いている。口パクに汚染された、不当な音楽番組が横行している時代にあって、ようやく良識ある発言が出たことを、大いに歓迎する。

私も当ブログの2011.1.1付で「NHK紅白など、口パク歌手は表示せよ」を書いてあるが、この記事はよく検索されるらしく、今でも継続して多くの方に読んでいただいている。しかし音楽番組の業界に影響力のある、きくちさんなどが今回公言してくれたことで、一般視聴者の認識が高まることを、期待したい。

歌手ならナマで歌え、は当然のことだ。しかしダンシングやアクションを売りにしたいアイドルグループにとっては、動きの大きな振付をこなしながら、じょうずに歌うのは、確かに無理もある。だから、その場合は歌に専念するメンバーと、ダンスに専念するメンバーを分ければよいのだ。

歌唱力のあるメンバーを4人もマイクに配置し、そのメンバーはステップ程度で歌に専念すれば、まずまず聴かせられる。そしてあとのメンバーは、思い切りダンスに注力すればよい。最も悪質なのは、マイクを持ったりワイヤレスマイクをつけていながら、そのナマ音でなく、事前に録音した音声を放送に乗せて、視聴者をだましていることだ。

今の消費者は、牛肉のトレーサビリティであるとか、食品の成分表示などに厳しくなっている。マスコミもそうした企業のインチキがあれば、厳しく報道する。そうした報道番組を持っているテレビ局でありながら、音楽番組で視聴者を欺く作り方に染まっていることは、反省すべきだ。

いっぽうで、ダンスを楽しみながら、歌はライブのへたな歌でなく、スタジオ録音でじょうずに歌っている声を聴く方が、気持ちがいいという考え方もある。

たとえばミュージカル映画なら、出演者の歌はアフレコに違いない、ということは一般視聴者でも当たり前に分かる。たとえば世界中でヒットした、故マイケル・ジャクソンのビデオ「スリラー」で、マイケルの歌は当然にアフレコだ。

したがって、口パクで録音を流すことは、一律に悪いことではない。特に歌唱力の低いアイドル歌手の場合は、振付で楽しませ、歌は修正を加えたスタジオ録音を聴かせるほうが、耳ざわりがよいからだ。

大事なことは、口パクなら口パクと正しく表示することだ。「この歌は、ダンシングを重視している関係で、音声は事前録音です。ただし、○○さん本人が歌っています」などと、きちんと表示をして、視聴者に正しい情報を伝えることが大切だ。

音楽番組の関係者は、「舞台の上は、もともと虚構の世界であり、観客は現実と異なる世界だからこそ、楽しめるのだ。だから、口パクという虚構も、舞台の上でなら許される、演出の手法のひとつにすぎない」などと思っているのではないか。

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2012年1月29日 (日)

NHK平清盛の画面はうすぎたないか

NHKの大河ドラマ「平清盛」の映像は、海の青さがでておらず、画面が汚くて見る気にならない、などと兵庫県の井戸知事が語ったことが、波紋を広げている。

兵庫県庁には多数の反響がメールや電話で寄せられ、「兵庫県の観光PRのためのドラマではない」など、9割は知事のコメントを批判するものだが、支持する内容の声もあるという。確かにこのドラマ、画面が暗く薄汚い、という認識は正しい。

NHK側は1/18の記者会見で、「平安時代をよりリアルに映像体験できるように努めている」と説明した。だがこの説明はおかしい。平安時代の瀬戸内の海も、空も、やはりすっきり青かったことは明白だ。わざわざ薄汚れた映像にすることが、なぜ平安時代をリアルに表現していると言えるのか。

ただ、今はデジタルテレビの時代になって、お茶の間テレビの解像度が高くなっている。普通に編集して放送したのでは、役者のメイクや、かつらと髪の継ぎ目などが、とてもリアルに分かってしまい、スタジオで撮影している現実感が、ありありと視聴者に伝わってしまう。

そこでドラマの演出者としては、視聴者にできるだけテレビ中継でなく、平安時代のイメージを表現したいと知恵をしぼったことは、理解できる。とはいえ、わざわざ画面がかすむフィルターをかけて、見づらくすることはないだろう。

問題はスタジオ中継のようになってしまう、デジタルビデオ映像にあるので、これをフィルム撮影による、映画のような画面処理をすれば済むことだ。史実を描いた過去の映画でも、海や空の青さを美しく撮影している。それで時代のリアル感が低いということはない。

歴史のリアル感を演出することと、瀬戸内海の海の青さを見せることは、両立できる。NHKには改善を望みたい。

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2012年1月14日 (土)

ストラディバリウスも音色では現代のバイオリンと差はなかった

高価で有名なヴァイオリンの名器といわれる、ストラディバリウスの奏でる音は、いま製造されているバイオリンと大差ないことが、仏・パリ大学の研究者らの実験によって実証され、米科学アカデミーで発表された(1/4読売新聞ほか)。

国際コンテストに参加するレベルの、21人のバイオリニストが、目隠しをしたうえで、高額なストラディバリウスや、現代のバイオリンなど6丁を演奏して、比較した。結果は、安い現代のバイオリンの方が評価が高く、ストラディバリウスはむしろ評価が低かったという。

これまでストラディバリウスは、使用されている木材と膠(にかわ)などの塗料との組み合わせや、200年の歳月による自然とのなじみ具合などが、微妙に関係して美しい音色を造り出している、などと言われてきた。

タレントが登場して「本物はどっちだ」と選ぶ、テレビのバラエティ番組でも、以前このストラディバリウスと、ヤマハ製の20万円くらいの練習用バイオリンを弾き比べたことがあった。私の記憶では、参加したタレントたちが同数くらいに評価が分かれ、ヤマハの練習用バイオリンのほうが、音が美しいと感じた人たちが、笑いの対象にされたことがあった。

だが今回の研究結果は、ストラディバリウスの音がさすが美しいと感心するのは、「1億円する名器だ」といった価格や、伝説による心理的な作用から、音も美しいと感じるにすぎないことを証明したといえる。

イワシの頭も信心から、という言葉があるように、信仰心があればイワシの頭でも神様に見える、ということだろう。ストラディバリウスは骨董品としての価値は、確かにあるだろうが、本来の価値は音の美しさで比較すべきであり、億単位の値段で取引されるほどのものではない、という評価が広まるのはよいことだ。

世間の行き過ぎた迷信や伝説が、こうした科学的な研究によって、事実が明らかにされていくことは、大いに望ましい。

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2011年11月12日 (土)

美空ひばり23回忌、「川の流れのように」の詞が残念

昭和を代表する歌手の一人、美空ひばりが1989年6月に52歳で亡くなって、22年が経った11/9に、23回忌コンサートが東京ドームで開催された。

フィナーレは、やはり代表曲の「川の流れのように」だった。この歌は曲の構成から、アンディ・ウィリアムスの名曲「マイ・ウェイ」をモデルにしたといわれ、淡々とした前半から中盤へ盛り上げ、歌い上げていく。

秋元康の作詞も、マイ・ウェイの構成によく似ている。人生を淡々と一歩ずつ、そこにはでこぼこ道もあり、地図のない道もある。雨の降られてぬかるんだ道でも、また晴れる日は来る、という前段だ。

だがこの詞が決定的に惜しいのは、川の流れに身をまかせて、おだやかに流れていきたいという結びだ。川はおだやかな時もあるが、荒れ狂う洪水を起こす時もある。普段はゆったり流れても、怒りの時には、木々や岩石をも押し流す力を持つ時がある。

自分ひとりは小さな歩みしかできないが、小さくとも怒りを忘れずに人生を歩んでいこう、成り行きまかせの人生ではいけない、という意味を込めながら、私の人生は、そうした川の流れのように生きていこう、という詞であればよかった。

その観点では、やはり「マイ・ウェイ」のほうが優れている。見岳章による作曲は、むしろマイウェイより優れているだけに、詞のストーリーがとても惜しい名曲といえる。美空ひばりは晩年にこの歌を多く歌っているうちに、自分の人生をも川の流れのように、神様に身を委ねて、天国へ旅立ってしまった。

美空ひばりは、音程が非常に正確な上に、演歌のこぶしも利かせる天才歌手だった。晩年のこの歌が、同じく代表曲の「柔(やわら)」のように、戦い続ける気持ちを込めていた歌だったら、もっと長生きしたかも知れない。

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2011年8月10日 (水)

被災地の松を京都で送り火、排他的な京文化を見つめる良い機会だ

津波で倒された陸前高田市の松をまきにして、8/16に京都の「五山送り火」で燃やす計画が、放射能汚染を懸念する声を受け、いったん中止されることになった。だが、市民などから抗議が殺到し、実施することに変更された。

送り火の保存会では、現地のまきを取り寄せて放射性物質検査をしたところ、セシウムもヨウ素も検出されなかったが、理事の中に強硬に反対する者がいて、実施にまとまらなかったという。

京都は「いちげんさんお断り」で知られるように、排他的な住民文化で知られる地域だ。言葉や物腰は柔らかいが、都(みやこ)の外の人間に気を許さない。応仁の乱から明治維新まで、京の都は常に権力争いに翻弄されてきたことから、こうした住民文化が根づいたと言われている。

「放射性物質がまきに含まれていないことを、しっかり検査すべきだ」という指摘なら、合理的だ。だが検査の結果で問題がないことが判明してなお反対する人間は、まさに京都以外の人の心を排除する感覚の表れだろう。

中止決定のあと、京都市民からも苦情が多く寄せられ、ほとんどが中止を批判するものだったという。「京都市民として恥ずかしい」という声もあったという。いったん決めた中止を見直した、送り火保存会の姿勢を評価するとともに、京都市民の良識が示されたことは、良いことだった。

排他的な感覚を持つ京都市民も、自分たちの文化を見つめ直す、ひとつの良い機会になればと思う。

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2010年8月10日 (火)

定着しない「ヘクト・パスカル」を見直せ

今年も台風シーズンになってきた。

気圧を表わす単位は、平成4年にそれまでの「ミリバール」から「ヘクト・パスカル」に変更されて20年近く経ったが、一般人の会話にはほとんど定着していない。「今度の台風はかなり強いね、中心が920ヘクトパスカルだって」などと、日常会話では使う人はほとんどいないだろう。

ヘクト・パスカルの言葉が長すぎるからだ。国際的な基準に合わせたというが、学術的な世界でしか使われない専門用語と異なり、気圧を表現する単位は、毎日の天気予報にも登場してくるのだから、導入するに際しては一般人になじむのかの観点も考えるべきだ。

長すぎる言葉を短縮し、たとえばタコのオクトパスに似せて「ヘクトパス」でもいいではないか。日本語は語呂合わせになじむから、これなら言いやすいのではないか。国際的な研究の場では、正式に「ヘクト・パスカル」と表現してもよいが、テレビの天気予報では「ヘクトパス」と言う。べつに不都合はないだろう。日本人は野球の「ナイト・ゲーム」も「ナイター」という和製英語を作って、定着させてきたのだ。

欧米文化では、歴史的な人名をそのまま単位や地名に使用することがあるのだろう。ジュール、ワットなどもそうだ。だが、言いづらくて一般人に定着しないのでは、かえってマイナスだ。日常用語では「ヘクトパス」でどうだと、日本から発信してみたらどうか。

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